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風変わりな世界

和洋楽団を始めて以降、私は何かとクラシックの演奏家の皆さんを知り合う事が増えました。そんな中で、時折日本のクラシックの世界は私には理解できない出来事があります。ここではそのエピソードをご紹介します。 あるとき知り合ったヴァイオリニストの方と意気投合して、次の無声映画の仕事をお願いしました。しかし数日後、突然お断りの電話が。彼は申し訳なさそうに口籠りましたが、先日とは打って変わっての言い分に納得いかず理由を問いただしたところ、耳を疑うような話でした。 あれからご自分の師匠に伺いを立てた処 「そんなもんやるんじゃない!俺の顔に泥を塗る気か?」 と叱責されたとの事。 彼らの門下は仕事をする際に師匠の許可が必要で、価値を認められたものしかやってはいけないのだそうです。これには驚いたというか呆れたというか…保護者の管理が必要な子供じゃあるまいし、いい歳の大人が何を言ってるんだかと馬鹿馬鹿しく思いました。 しかしよくよく考えてみれば、彼らの紹介文には必ず「〇〇先生に師事」とか「〇〇先生門下」といった内容が記されています。これらは言わばパスのようなもので、著名な先生に付いている事で自分の信用度/ネームバリューも付き易くなるというものでした。故に若手のクラシックの演奏会では例外無く必ずこれらの文言が記されています。そして自分の名前を使われる師匠からすれば、クラシックからかけ離れた世俗音楽の演奏など許されないという理屈になるのでしょう。 でも私からすれば、そこまで言うのなら高い月謝を払って習いに来ている門下のお弟子さん達の生活の面倒くらいみれば良いのに、と思うのでした。噺家や芸人、演歌歌手などのお弟子さん達は付き人をしながら生活の面倒は何かとみてもらえるのに、中途半端な拘束で師匠ヅラしている音楽家は軽蔑します。そういう事を考える彼らこそが全くもって世俗的で不健全ですらあると思えます。(念のために言っておきますが、そうじゃない音楽家の皆さんが多々いらっしゃる事も存じており、心から尊敬しております。) 「世俗音楽とクラシックは違う。クラシックは芸術なのだ。」と言った人がいますが、言わせてもらえばそのクラシック音楽の数々も、その時代ごとの流行曲だったんですよ。J.S.Bachも晩年は「彼のフーガはメロディーが解りにくくて難しく時代遅れだ。...

無声映画音楽にギター??

無声映画全盛の時代、音楽的には歌舞伎の下座音楽の影響が色濃い邦画に対して、洋画は使用曲の制限が無く、比較的何を用いてもよかったため、楽士達はクラシックの名曲を演奏したこともあったようです。現代の私もそれに倣って既成のクラシック曲や個々の作品を念頭に作った自分の曲を用いるようになりました。こうして私は楽団で作曲/編曲/指揮/三味線/ギターの5役をこなすことになりました。リリアン・ギッシュに捧げた曲を始め今まで多くの曲を作っていますが、産みの苦しみに悩まされることはあっても作りたくないと思ったことは殆どありません。ただし、稀に映画作品自体が音楽を必要としていない物もあり、その場合は各場面に音楽を当てることが苦痛に感じることがあります。音楽も弁士も必要としない完結した無声映画作品。それに音楽や説明をつけるのは日本流の再現とはいえ制作者の意図を無視した行いですが、それでもやらなければならない事だったので出来るだけ映像を邪魔しないように音をつけた事があります。 余談ですが本来の日本の無声映画楽団にギターは含まれてないので、それ自体は私の創作の部分です。しかしトーキーが発表され無声映画自体が廃れた後も、地方都市ではまだまだトーキー設備の手配ができない映画館は多く、私の郷里、会津でも第二次世界大戦の頃まで楽士はいたそうで、その際イレギュラーな楽器で伴奏していた事を私の父が生前に証言しております。編成は三味線と笛の二人で、三味線の人はもう一つ楽器を兼任していたそうです。父も幼かったので残念ながら具体的な事は覚えていないのですが、ピアノではなかったと言っておりました。 また私の記憶に残っている1970~1980年代の時代劇ではギターがBGMに使われている事も大変多く、案外相性が良いと思っておりました。あと現実的な話でピアノが使用できない場所などもあり、その際はギターは伴奏楽器として威力を発揮しますし、ソロ楽器や打楽器としても使えるため効果的だと考えております。特に関東流が得意とする泣きのシーンでの効果は絶大です。