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そこに愛はあるのか?…三味線のお話

基本的な事は解ったとはいえ細部の事はやはりよく解らず、習う事は経済的にとても無理だった私は、両親がやっていたカラオケの会に参加されていたご縁で、三味線がご趣味の老婦人と偶然知り合いになりました。その方は正式に習っており、同門の方々の公演の度にチケットを下さったのです。私はその度に演奏を見て、どのように弾いているかを観察しました。男女混合で何人もの方が演奏されるのですが、その中に一人ご高齢の男性でとても良い音色を出される方がいらっしゃいました。聞けばその方は先生とのことで、まさに「腹の据わった」音が素晴らしかったのです。私の三味線の音の理想のモデルはその先生の音になりました。細部まで観察してできるだけコピーしました。 しかしやり方が解ったからといって、そう易々と会得できるものではありません。しかも、白状しますと始めの頃、私は三味線を全く好きになれずにいました。そもそも三味線奏者を雇う余裕が無いから自分で始めたという義務感が先立って、今ひとつ三味線に対する愛着が持てずにいたのです。しかも三味線の音色は洋楽器と極めて混ざりが悪く、弾くたびにストレスを感じていました。しかし本当はその混ざりの悪さは自分のせいで、しっかりとその特性を理解していない未熟さが原因だと、その頃は気付かずにいました。 三味線を面白いと思えるようになったのは20代の終わりの頃。知人の伝手で参加した音楽集団による津久井湖半での野外公演で実験音楽をし、初めて三味線が自分にフィットする瞬間を得られてからです。うまい言い方が見つからないのですが「自分が弾いても許される楽器」という感覚が生まれて、弾くことが辛くなくなりました。 後日談として、先述の和楽器店のご店主とお話をしたところ、お兄様が実はギタリストだったそうで、やはり正式に習った事は無いそうですが三味線も弾けたとの事です。 「ギタリストって器用な人が多いのね~」 と、ちょっと圧のある言い方をされておりました。 参考までに私の三味線の使い方を記します。三味線には「本調子」「二上り」「三下り」というチューニング法がありますが「三下り」がギターと同じ四度調弦なため、私はほとんどの楽曲を「三下り」で演奏します。通常の三味線の演奏ではあり得ない事でしょうが、こと時代劇の伴奏の際は次から次へと違う曲を演奏せねばならない事が多く

三味線を始めたわけ

楽団の楽器編成で私を悩ませたのは三味線や「鳴り物」と呼ばれる鐘や太鼓類の邦楽器の存在でした。中でも三味線については急務だったのですが、邦楽の世界に全く伝のなかった私は三味線奏者が用意できずにいました。更にそれは予算の面からも同様で、事務所からも 予算増額を拒否 され、もう一人たりも増やす余裕はありません。…で、切羽詰まってこんな浅知恵を思いついたのです。 「私はギタリスト。同じ弦楽器ではあるので、ひょっとしたら自分でもできるのでは?」 なんとも恐ろしい発想です。しかし和楽器無しで時代劇を伴奏することは不可能。無声映画専門の楽団としては不完全なのです。そして、楽器さえあれば自分でなんとかできるはず!という思いが強くなっていったのでした。 そんな時、音楽学校時代の恩師のご親戚が亡くなり、形見分けで三味線を貰ったと連絡があったのです。 あまりにも出来すぎたタイミングですが事実です。 それで恩師にお願いし、その三味線を無期限で借り受ける事ができました。三味線は地唄用のもので皮も破れておらず、べっ甲と象牙でできた高価な撥も付いてました。しかしあまりに高級過ぎて、貸与されているあいだ私はこの撥を一度も使う事はありませんでした。 さて、三味線は手に入れたものの、ギターと違って一般的ではない三味線の奏法に関する詳しい解説書など、どこの本屋にもありません。私の住まいからほど近い場所に和楽器店があり、試しにそこのご店主兼先生に伺ったところ三味線教室の門下生となり稽古を受けなければならないのですが、問題はその月謝の金額です。先生によってバラバラですが、伺った中で当時一番安かった先生で3万円弱!……実は私のギターのレッスン料よりはるかに高く、なんとか生活していた身にはとても月々そんな大金は払えませんでした。 しかも邦楽の世界では師弟のあいだに様々なしきたりがありました。例えば、自分の師匠が公演ともなるとチケットをさばかなければならず、ノルマの分は買取なのでお弟子さん達は最終的には空席を出さないためにタダで知人にあげたりしてらっしゃいました。また公演当日はお祝いと称して何がしかのお金も別に包んで出さなければなりません。お師匠さんの方もお返しとしてそれ相応の金額のお土産を出していたので、私から見れば「win,win」ならぬ「lose.lose」な関係な

楽曲復元事始め/Part2

先述のように関東流と関西流では弁士との絡み方も楽器編成も異なります。また特に時代劇では歌舞伎の下座音楽の流用が多く、しかし歌舞伎本来の場面設定とは全く異なる使い方をされています。当時の大衆的には聞き覚えのある歌舞伎の音楽が活動写真館で聞こえてくるのは親しみがあったでしょうし、それらは和楽器と洋楽器で演奏されるという、当時としては新しい音だったでしょう。映画作品の内容に沿って充てた音楽が歌舞伎での使用法とは違うとはいえ、一般大衆でそこまで詳しく精通していた人は稀と思われ、歌舞伎の場面設定と違う音楽が流れても違和感を訴える人は殆どいなかったと思います。なにより「文明開化はエレキ応用。ものが動く活動の大寫眞」和洋折衷の楽器編成で奏でられる音楽を用いた最先端のこの娯楽は、この上なく贅沢な時間だったことでしょう。 明治以前の日本の音楽は西洋的な和声の概念は無く、全ての楽器が陽音律/陰音律に基づいた、ほぼユニゾンあるいはオクターブユニゾンが主です。違う旋律が出てきたとしても、それは西洋の長調/短調とは異なる響きです。故にコロムビアの無声映画伴奏譜では汎用のメロディー譜のみを書き記し、あとは楽器編成によって各々の楽団が書き移すと同時にアレンジも施すいう手法をとったと思われます。また、コロムビアの無声映画伴奏譜以外にも楽譜は出版されており、更には特定の映画の専用音楽集もあったことが後々わかりました。 渋谷氏の残した録音物の中に所々異なる部分があるのも上記の理由がひとつあったと思われます。あと、これはこの時点ではあくまでも私の推察でしたが、劇場に出向いて聴いた音楽を記憶し、のちに写譜したと思われる曲もあります。楽譜は昔も今も決して安価ではありません。ですから聴いてコピーする、いわゆる「耳コピ」の能力があれば、低コストで同じ曲が手に入るわけで当然思いつく発想です。ただ、おそらく聴いたその場で書き記す事は流石に目立ちすぎますし、演者側も曲を盗みにきた相手をみすみす野放しにはしないでしょうから、聴き終えて劇場を出てから書き出したのではないかと思われます。その際に記憶の曖昧さが生じ、調や話声、構成が変わってしまった曲がそのまま他所で演奏されたのでは無いかと推察しています。(近年「平野コレクション」の発見により、その中の採譜物によって確信へと変わっております。)

楽曲復元事始め

かつての伴奏音楽を復刻させるための作業は、演奏を行っていた「和洋アンサンブル思ひ出」が残した音源を聴いて採譜することから始めました。私が関わり始めた当時、マツダ映画社で製品化されたいくつかのビデオがあり、その中に使用されている曲を聞き取って楽譜を起こし直すのですが、なにしろビデオですから映画説明の声の陰に隠れて音がよく聞こえないことも頻繁にありました。その場合はマツダ映画社までお邪魔して音源を聴かせていただきました。オリジナルはオープンリールの音源でかなり古かったので、そこからコピーしたカセットテープを聴きました。初めのうちは駆け出しだったので音源の社外への持ち出しや他の記憶媒体への複製も禁止でしたが、後に複製が解禁され自宅に持ち帰れるようになったのではるかに楽になりました。 このようにしてオリジナルテープの音を聴かせていただくようになったのですが、それでもよく解らない部分が多々ありました。というのも、この録音物は楽団の皆さんがかなりご高齢になってから録ったもののようで、曲によって技術的な差も激しく音程が極めて悪いものが多く、時代的なこともあって全て一発録りで明らかにミスと思われるものも多々ありました。おそらく練習もあまりしていなかったのではないかと思われます。それゆえに音程もリズムもバラバラな部分があり、果たしてどの音程とリズムが正しいのか、判断しかねる事があったのです。これには本当に悩まされました。最終的にその辺りは近似値をとって音程化しました。また明らかに録音時期が異なると思われる音源も多々ありメンバーも違っているようです。 関東流最後の楽士となった渋谷氏は「和洋アンサンブル思ひ出」の音源を多数残しましたが、一方で楽譜や場面ごとの指示書の類は一切残っていませんでした。先代の松田春翠氏のご長男で実質的な後継者となった誠氏も大まかに口伝された事を聞き覚えているのみで、春翠氏の指示で生前に製品化されたいくつかのビデオとキューシートから、どのような場面でどのような音楽を使うのか、その傾向を頼りに手探りで調べる他ありませんでした。 その最中に、当時マツダ映画社でアルバイトをしてご自身も「蛙の会」のメンバーとして弁士の勉強をされていた上杉氏から、ご厚意で提供していただいたコロムビアの無声映画伴奏譜は大いに役に立ちました。そこには

音が大きい??

当時、公演が終わると決まってマツダ映画社を通じて弁士の澤登翠さんから、楽団の音が大きいのでもっと音量を下げて欲しいと注意がありました。無声映画の伴奏には流派があり、大別すると関東流と関西流があります。関西流は弁士が話している間は一切音を出さず、チャンバラなどで賑やかに演奏しますが、関東流は弁士の説明中も伴奏をする流儀だったのです。故にチャンバラものは金管楽器も含む賑やかな関西流が得意とし、人情ものはしっとりと歌い上げる関東流が得意としました。しかし音響機器と違って生演奏の音量を下げるといっても限界があります。あまりに毎度同じ注意が来たので、マツダ映画社に「説明中に無音にしては?」と提案したのですが、完全に無音にするのはNGでした。そして仕方なく演奏者に音量を下げて欲しいとお願いするのですが、「そんな事をしたら本来の楽器の音が出なくなる!」と言われて板挟みにあいました。 彼らの言い分も尤もな話で、クラシック音楽でソリストとしての教育を受けてきた彼らにとって、自分の楽器を朗々と美しい音色で会場の隅々まで響き渡らせてこそ一流なのです。しかも彼らはそれだけの実力を十分持っています。そんな彼らに楽器の音量を演奏上の一般常識以下に小さくしろというのがどれだけ理不尽な事か…私も痛いほどよくわかっていたのです。しかし演奏者たちにお願いしてなんとか音量を下げてもらっても、終演後にはまた同じように音が大きいと注意があります。 で、ふと疑問が湧きました。 本当にそんなに演奏の音が大きいのか?… そこで次の公演の時にリハーサルの間に客席に降りて聴くと、澤登さんの声は鼓膜がビリビリするほどマイクの音量が上げられていたのです。それなのに楽団の音が大きいと仰るのは訳が分かりませんでした。しかし、次第にその理由が推測できました。 関東流の無声映画楽士が絶滅したのち、私が新たに楽士として無声映画に関わり出すまで、マツダ映画社では先任で最後の楽士であった渋谷某氏が楽団「和洋アンサンブル思ひ出」と共に残した、テープ音源を用いて公演を行なっておりました。もちろん「和洋アンサブル思ひ出」はすでに存在せず、渋谷氏ご自身も1970年代の前半には亡くなっているため、澤登さんは楽団による生演奏での公演を、おそらく経験したことが無かったのだと思われます。いつも音量を下げて欲しいという

メーデー メーデー

この楽団での初仕事は5月1日、メーデーの日でした。高校の芸術鑑賞会で「チャップリンのキッド」「ドタバタ撮影所」「映画の誕生」の3本立て。会場は日比谷公会堂でした。 ここでまたもやカルチャーショックに見舞われます。 クラシック組のメンバーは舞台上の譜面台や椅子の設営を全く手伝わず、更に呼び出されるまで楽屋から出てきません。 楽屋から練習する音が漏れ聞こえてくるのですが、それはこれからやる演目の音楽ではなく著名な作曲家の作品で、それを聞いた私は正直「なんて失礼なやつらだ…」と思いました。これからやる本番のことより自分の気になる音楽を本番前にやっているなど、バンド出身の私には全く考えられないことでしたが、「とにかく冷静に!」と自分に言い聞かせました。 開演直前、フルートの鈴木真紀子氏から「今日のギャラはいつ支払いですか?」と聞かれました。私はてっきり事務所から聞いているものと思い込んでいたので 「あ、聞いてなかったんですね?すみませんでした。今日のギャラは来月末に振り込みになります。」 というと、彼女は他のメンバーにも伝えると言って去りました。 いよいよ開演が近づき我々が舞台に出て準備していると、女性メンバーを見た男子高校生が冷やかします。まあ、当時の高校の芸術鑑賞会ではよくある光景ですが、彼女らは戸惑ったり不機嫌になった事を隠さず顔に出すため、男子たちは面白がって更に冷やかすのでした。私の出身高校は地元でもガラの悪さは1、2を争っていたのでこんな事は馴れたものだったのですが、クラシック畑の彼女たちは( 決して皮肉ではなく )育ちの良い家柄だったので、こういった冷やかしはおそらく今日という日まで受けた事がなかったのでしょう。いつもなら綺麗な衣装で舞台に登場した姿に拍手し、演奏を静かに聴く客はここにはいません。 明らかに不機嫌な態度が出てしまった彼女たちを見て会場内はだんだん騒ぎが大きくなってきて、これは参った!どうしたものかと思っていたところで高校の先生が壇上に上がって学生たちを鎮めます。そして一度は落ち着いたものの、弁士の澤登翠さんが登場し作品紹介を始めると冷やかしがまた再発し、澤登さんまでもが不機嫌な表情になってしまいました。 (後に知りましたが、彼女もまた良家のお嬢様でした。) まんまと相手の罠にはまってしまった

新楽団の初リハーサル

まもなく仕事が決まり、私は急ぎ楽譜を作りました。 そして初めての顔合わせとリハの日を迎え、メンバー一同へ挨拶の後この仕事の趣旨を説明し、楽譜を手渡しました。しかし、私の書いた楽譜を見た彼らは愕然とします。 「 この楽譜、何も書かれてないですが…どうすればいいんですか? 」 私は内心「何も書かれていないとは 失礼な! ちゃんと音符が書いてあるじゃないか!」と思ったんですが落ち着いて「そこに書かれてるメロディーを元に、自由にフェイクして下さっていいですから」と言うと「フェイク」の意味が通じません。 私が初めに関わった国立音大出身の皆さんはクラシックとジャズの両方ができる人たちでしたが、それはクラシック系の音大生の中では特殊なのだという事をそのとき初めて知りました。 更にクラシック系の彼らの音名の呼び方はドイツ語。私はジャズの学校出身で英語で習っていたので、同じ日本人同士なのに音楽用語が通じず、まるで異国人同士のコミュニケーションです。彼らにフィーリングで演奏するという言葉は全く通用せず、書かれた事を忠実に演奏するように教育されているので、楽譜に細かな指定がないと素人が初めてパソコンで作ったMIDIデータ並みの演奏になります。逆に彼らからすれば、私の書いた楽譜は子供の落書き並みに酷いということになります。 更に…ある人は私の書いた音符が汚くて読みにくいと言い、おもむろに消しゴムで消して書き直し始めました。これには私も慌てて 「消さないでください!」 と言ったんですが言う事を聞かず書き直しました。ではその人の書いた音符は綺麗だったかというと私のものと似たり寄ったりで、正直なところ書き直す必要がどこにあったのか疑問でした。 またこのとき出していたのは原譜だったのですが、ある人はボールペンで楽譜に加筆してしまい「これは原譜ですから後で消せるようにしてください!」と言ったんですが、逆に「なんで原譜を出したんですか?」と言われる始末でした。たしかに楽譜にどんどん書き込みをするのは当たり前ではありますが、まさかボールペンを使うとは思いもしませんでした。もっともこの楽譜が出来上がったのはこの日の朝で、昼からリハーサルだったのでコピーする余裕もなかったというところだったのですが…。しかも仕事専用の五線紙は特殊なサイズでコピー機に入らないのです。

新しい楽団の編成

新事務所の元で楽団を再編する事となり、紹介された演奏家はフルーティスト、バイオリニスト、ピアニストの3人でした。前身の楽団では木管楽器はクラリネットでしたが、それは先述の「生まれてはみたけれど」の録音物にクラリネットが入っていたからです。 無声映画の当時の音楽的な時代背景や、映画館のなかでトップに位置する壱番館が毎週のように封切り映画を上映していたという現場の作業環境を考えると、フルートの方が作業効率が良く、バイオリンを含む擦弦楽器とも相性が良いと考えたため変更したのでした。この時フルーティストとして、現在まで活動を共にする鈴木真紀子氏が入ってきました。 パーカッションだけは事務所にいなかったため私のコネクションで招聘して構わないという事でした。そこで前楽団の野村氏も当然考えたのですが、最終的に東京国際映画祭を一緒に務めた私のバンドのドラマーを引き入れました。それは当時、彼が演奏者として伸び悩んでおり、少しでも場数を増やして経験を積み、成長して欲しいという思いからでした。 私を入れて総勢5名というのは実は単に予算の問題で、本当は低音楽器や三味線も入れたかったのですが新事務所が頑として予算増額を拒否したためでした。 私とパーカッション(当人は「俺はドラマーだ」と言い張っております)以外は皆さん桐朋学園大学の卒業生や在校生で、名門の音大なので「それなら大丈夫」と安心していたんですが、初めてのリハーサルでフタを開けると大変な誤算が待っていました。

新事務所からの打診

翌年の初め、当時私がギター講師をしていた音楽教室の社長から呼び出しを受けました。日頃から機嫌がコロコロ変わる人で典型的なワンマン。正直なところ私は苦手なタイプでした。機嫌が悪いと扱いづらい事この上ないので恐る恐る事務所に入ると、社長はチラッとこちらを見て、あとは仏頂面で禁煙パイプをくわえながら他所に目をやったままで話し始めました。しかしその内容は私にとっては意外なものでした。 社長は無声映画の上映に興味があると仰います。そこは音楽事務所も併設しており、とりわけ中学・高校の芸術鑑賞会を多く扱っていました。そこで、中高の芸術鑑賞会に無声映画を売り込みたいというのです。無声映画楽士を始めたものの開店休業状態が長く続いていた私は、仕事になるなら是非お願いしたいと言いました。しかし、先方からは二つの条件がありました。 1、私に無声映画公演を世話してくれた友人の事務所が手を引く事。 2、演奏者はこの事務所に所属する演奏家で固める事。 この二つの条件をのまなければ仕事は回さないと言われました。 どちらも私にとっては気の重い条件でした。私の事をいつも気にかけてくれて、無声映画の伴奏を紹介してくれた友人に、手を引いて欲しいと言いうのは恩を仇で返すようなものです。しかし、一方で現実問題として友人の事務所では営業が上手く回っていなかったのも事実で、せっかく組織した楽団も前年の公演のあと仕事は皆無。正直なところ、もっと仕事量を増やしたいという思いも強かったのでした。 決心して私は友人に連絡を取り、事の次第を全て正直に話しました。激怒され責められる事を覚悟していたのですが、彼は逆に自らの力不足で仕事が回らない事を詫び、手を引く事を承諾してくれました。私はこの時の事を、今でも本当に申し訳なかったと思っています。 もう一つの条件、この事務所に所属の演奏家を起用する件については、前年一緒に演奏したメンバーに「一先ず新事務所の条件をのんで先方の指定する演奏家にお願いするけど、きっと呼び戻すから」と言いました。いずれ少し時間が経てば、きっと私の言い分は事務所に通るようになると思っていました。 しかし現実はそうそう甘くはありませんでした。 ちなみに先述の事務所の友人はこの後もミュージシャンとしての私の力を大いに買ってくれて、あるプロジェクト