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初めての楽団組織

東京国際映画祭から3年が経とうとしていた頃、再び友人のマネージャーから連絡があり、マツダ映画社から無声映画公演の依頼があったといいます。ただし今度は昔の楽団の音を再現をしたいとの要請でした。作品は小津安二郎監督の「生まれてはみたけれど」。 すでに同社でビデオ化されており、その中で使われている音楽を再現してほしいとの依頼でした。 そのためにはいちから楽団を組織しなければなりません。私は以前、国立音楽大学の学園祭ライブに出演した際に知り合ったパーカッショニストの野村修氏とピアニストの鈴木厚志氏に打診して快諾を得ました。彼らはクラシック系の音大出身で、且つジャズが得意で即興がとても素晴らしいのでした。更に彼らから紹介してもらったクラリネット奏者(たしか野村氏の従兄弟だったと記憶しています)とバイオリニストで計5人の楽団を組織して、私は原曲の採譜とアレンジ、指揮という立場をとりました。 前回の東京国際映画祭の時のように、リハーサルにテレビとビデオデッキを持って行く事はできなかったので、当時ちょうど出たばかりの小型液晶テレビ付き8ミリビデオと簡易プロジェクターを購入しスタジオに持参しました。機材購入費だけで大赤字だったのですが、今後このような演奏の機会が増えるかもしれないと言われたため、それを期待して先行投資のつもりで奮発したのでした。 このときの公演はどこで行ったのか全く記憶がないのですが、日帰りだったので関東近郊であったのは間違いないです。スタジオでのリハーサルや舞台上での演奏中の記憶の断片は残っています。本番での彼らの演奏は私の期待を裏切らず、大変素晴らしい演奏をしてくれたので今後に希望が持てました。 しかし、その後は全く依頼が来ず、先行投資した機材のローンだけが続きました。

番外編 黒いブロッコリー事件

1989年の夏、ギターの先輩から電話がありました。なんでもダブルブッキングしてしまったので、代わりに私にやってほしい仕事があるといいます。仕事内容を伺うと、あるホテルでダンス教室のパーティーがあり、そこでオールディーズバンドと某演歌歌手のバックバンドを兼ねてやってほしいとの話でした。 ダンス教室のパーティーで、オールディーズはまだ分かりますが演歌とは??なんとも不思議な取り合わせだと思いましたが、とにかく仕事が欲しかったので喜んでお受けしました。 本番当日、ホテルの会場に向かうと一番の大広間でした。係りの人たちが円卓を出しテーブルセッティングをしています。団体名で〇〇ダンス教室パーティーと書かれた看板を見て、ずいぶん受講生の多いダンス教室なんだなぁと思いながらもリハーサルを済ませ一度控え室に戻りました。出番の時間になりギターと楽譜を持って会場に入ると、そこには予想もしない光景が広がっていました。 会場一面に広がるパンチパーマ 。眼光鋭い若い衆がこちらを睨みます。そして気がつきました。これはダンス教室のパーティーでは無く、おそらく組の若い衆の慰労会ではないかと。しかし、実はこの時バックバンドを務めさせて頂いた演歌歌手の方は割と大きなスキャンダルの渦中にいた有名人だったので、私はこの時点では、これは本当はドッキリで暫くしたら立て札を持った人が現れて「大成功~!」と言うのでは、という淡い期待をしておりました。しかし張り詰めた緊張感の中でショーは始まり、キーボード担当のバンドマスターを横目で見ると、楽譜は正面に立てているのに顔をほぼ真下に向けて弾いていました。 この時初めて私は彼らが本物だと自覚しました。そう思った瞬間、一気に頭が真っ白になり、楽譜もどこをやっているかわからない状態に陥りました。とにかく頭の中で「やばい!」を連呼していました。するとベテランのアルトサックスの方が横に来て「お前、もう弾かんでいいからフリだけしてろ」と耳元で言って定位置に戻りました。私は言われた通りにフリをして難を逃れました。 途中で正気を取り戻し、どうにか舞台を終えて控え室に戻ると私はとにかくここを早く出なければという一心で後片付けを始めました。 するとこのときバンドマスターはオールディーズのほうのヴォーカリストの女性と別件で口論をしており修羅場と化していました

1989年 天皇陛下崩御

1989年はとにかく「忍」の一字で耐え忍ぶ1年でした。年が明けて世間的にも正月休みも終えた1月7日、天皇陛下が崩御されました。それは私たちの生まれ育った「昭和」が終わりを告げる事でもありました。前年後半からずっと生死の境を彷徨われ、ニュースでは毎日「本日は下血が○ccで輸血をされました。」との報道がされましたが、我々国民のための延命であった事は明白で、どれだけお辛かった事かと思うと言葉がありませんでした。私はすぐに記帳のために皇居に向かいました。日が暮れていましたが記帳所には驚くほど大勢の人々が並んでおり、寒い中どれだけ待っても誰一人として不満を言う人も無く、あんなに静かな大行列はそれまで経験がありませんでした。 そしてこのあと世の中は新しい「平成」の時代を迎えますが、我々のような職種の人間たちにとって本当に辛い1年が待っていました。それは「自粛」です。別に政府や宮内庁が促したわけでは無く、国民全体が喪に服すという意味で、過去の歴代天皇の崩御の際もそうであった事に倣って多くのコンサートやイベントの類が中止、あるいは規模縮小での開催となりました。私はほとんどお仕事がもらえず、ただただバイトに明け暮れる毎日でした。 この時代、世間的には1950~1960年代の「オールディーズ」が流行っており、私はギターの先輩の誘いで運良くオールディーズバンドに参加できたので、時折先輩の代わりに出演し収入を得る事はできました。一方でこの年は、無声映画の伴奏からは完全に遠ざかっていました。とにかくいただける仕事はなんでも受けるだけでした。 そこで無声映画楽士の話とは全く関係がないですが、次はこの年にギタリストとしての私が被ったエピソードを紹介したいと思います。

1988年、川崎クラブチッタにて

東京国際映画祭の翌年、友人の事務所の企画で川崎のクラブチッタを会場に、無声映画をモチーフとしたライブイベントを開催しました。当時のディスコ的な場内演出の中でチャップリンやキートンの短編のコメディー映画にDJが音をつけたり、我々もバンドで1925年版「オペラ座の怪人」に音をつけました。しかし、このイベントについては演者からすれば問題がありました。音楽の方がメインのイベントなので私も含めて作り手側は映画の場面編集を行いたいのです。しかし先述したように当時はまだパソコンを用いた動画編集技術は登場しておらず、業務用ビデオテープを使った大掛かりな編集スタジオが必要で、ほんのちょっとの編集でも数十万円、長編ならば数百万円の大金が必要でした。小さなイベントですから当然そのような予算はあるわけもなく、更に本番で用いる映画はフィルムで、ビデオへの複製は不可。もちろん貴重なフィルムを切り刻むなんて事は考えられません。つまり編集する事はできず、最初から普通に上映しなければなりません。アイディアはあっても形にできないもどかしさがありました。 事務所側は1984年のジョルジオ・モロダー版メトロポリスのイメージを持っていたようで我々にも同様なものを求めていました。モロダー版メトロポリスは発表当時こそフレディ・マーキュリー/パット・ベネター/ボニー・タイラーといった人気ロックアーティスト達の楽曲提供で作り上げ話題にはなりましたが、特に映画のために書き下ろされた感じの曲でも無く、それぞれの自己主張が強い楽曲だったため最終的には曲だけが一人歩きして、後にはそれらの曲がメトロポリスに提供されたものだという認識すら世間的には希薄になりました。一番メトロポリスに歩み寄っている楽曲は、やはりジョルジオ・モロダー自身の手がけたものでした。 このように世界的にかなり大掛かりなプロモーションを展開しても、無声映画自体は何か新しいものと掛け合わせれば復活するというものでもありませんでした。ただし、モロダーのこの大きなプロジェクトのおかげで完全に忘れ去られる事を免れた無声映画作品は少なくはないと思います。それだけでも彼の功績は多大なものだと感じます。 話を戻しましょう。クラブチッタで行われたイベントはマネージメント的にも演奏的にも、いろいろな点で消化不良に終わりました。終えてみて、私はバンドや

リリアン・ギッシュへの想い

「國民の創生」で観た名女優リリアン・ギッシュに私は恋をしました。彼女に関する文献を読み、その可憐なルックスとは裏腹に極めて腹の据わった男性的な一面を持っていた事、「東への道」では命がけで撮影に挑んだ事など 意外な彼女の人となりを垣間見て、女優リリアン・ギッシュへの尊敬を深めました。 東京国際映画祭が終わった後、自分のバンドで演奏するわけでも無くただ彼女のための曲を作りました。初めはクラシックギタースタイルでのソロとして作曲し、後に楽団で演奏できるようにアレンジしました。曲名は彼女の名前をそのままつけて「Lyrian」です。 完成した曲を彼女にプレゼントしたかったのですが、アメリカの老人ホームにいるという事以外なにも手がかりが無く、一方でまだ作品に改良の余地があるのではないかという欲も出て何度も手を加えているうちに、リリアン・ギッシュの訃報が入りました。 プレゼントすることができず残念な思いでしたが、宙に浮いたこの曲を私は彼女の出演する無声映画の中で必ず使う事にしました。そして今では洋画の愛らしいシーンでの定番曲として用いています。 2016年3月に銀座十字屋ホールで行った楽団カラード・モノトーンの20周年記念コンサートの時に、さらに手を加えてアンサンブルを豊かにしたバージョンの「Lyrian」を演奏しリリアン・ギッシュに捧げました。

武道館で「イントレランス」の衝撃

東京国際映画祭でどうにか役目を終え、疲れ果てて振り返れば、ギャラを上回る出費で完全な赤字。主にスタジオ代です。公演後にこれといった反響も無く、ただ「やった」という事実だけが残った、そんな無声映画伴奏の初体験でした。そして、あまりにも大変な事ばかりだったので終演直後は「二度とこんなしんどい事はやらない!」と思っていたのです。しかし人というものは喉元過ぎれば熱さ忘れるとでも申しましょうか、時間が経つにつれ、祭りの後の寂しさに似た気持ちが湧き「もう一度くらいならやってみてもいいかな。」なんて都合の良いことを思ったのでした。過ぎた時間もたかだか1週間程度。そのくらいでまたヤル気になっていたのです。 この後、1989年に民放テレビ局の主催でD.W.グリフィス監督のもう一つの大作「イントレランス」が、作曲家とフルオーケストラを率いて東京/名古屋/大阪の3カ所で大規模な上映をしました。東京は武道館で公演を行い、入場料はコンサート並みの八千円という高額ですが、時はバブル経済真っ只中。主催が当時大人気番組を多数放送した民放テレビ局ということもありCMもバンバン放送され、集客もまずまずだったようです。私は低収入でとても八千円も払えなかったので、後日テレビ放送したものを観ました。私たちが行った東京国際映画祭での「國民の創生」は集客こそあったものの全く話題にもならず、先方が実力、話題性、資本力の全てにおいてはるかに上で、全く歯が立ちませんでした。 何より悔しかったのはイベント紹介番組の中でMCが「無声映画に音楽をつけるのは戦後では初の試み」と発言した事でした。2年前に我々を含めて様々なバンドがすでにやっている事ですし、この時すでに私は無声映画楽士の道を歩み始めていたので間違っても戦後初ではないわけで、何とも言えない気持ちになりました。しかし私も始めてたかだか2年。どこの馬の骨かわからないわけですし、私もまだ何も解らず手探り状態だったので、とても無声映画楽士でござい!とは言えませんでした。

1987年3 東京国際映画祭 本番

本番の数日前にようやく完成し、村上氏と持ち寄った曲をバンドでリハをするためにスタジオに入ったのですが、これまた当時はタブレット型パソコンも液晶テレビも無い時代。ブラウン管のテレビとVHSビデオデッキを持ち込んで、スタジオのオールナイトパックで夜通し練習したのでした。昼間はバイトをしてましたから結局本番当日の朝まで、3人のメンバー全員がほぼ不眠不休のままリハーサルを重ねたのです。 本番の日の朝、最後の深夜リハーサルを原宿のスタジオで終えて村上氏の車に機材を積み込み、その足で会場へ向かいました。場所は有楽町マリオン。朝の部から3回上映し、ひどい倦怠感のため休憩時間に薬局で滋養強壮剤を買い、1日1本しか飲んではいけないものを合計3本飲み、しかも強いもの強いものへとシフトしていきました。この時、一部のミュージシャンが麻薬に手を染める気持ちが解った気がしました。もちろん私たちはユンケル止まりですが。 弁士は松田春翠氏の後継者となった澤登翠さんが大半を務め、終盤一番のクライマックスだけ大御所の美好千曲先生に交代するというやり方でした。ところが我々にとってこれもまた大きなストレスでした。語り口調が途中で大きく変わるため、調子が狂って音楽が合わせ辛くなってしまうのでした。澤登さんはスクリーン内の登場人物それぞれのキャラを演じるように声色を変え、比較的おとなし目でシリアスな口調で話すのですが、美好先生の交代部分はちょうどラストの乱闘シーンで 「何とここで敵が現れたってんだから、さぁ大変だ!召使だって黙っちゃいないよ。えい!こら!ざまあみろ、やっつけちゃったーぃ!」 といった具合に活劇口調で流れがガラッと変わるのです。この頃は私もまだ美好千曲先生のことをまるで存じ上げず、何で終盤に突然交代して語るのか解らなかったのです。当時の澤登さんはまだ松田春翠氏の後を継いだばかりで、関係筋からも不安視されていたので致し方無い事でした。事実、美好先生の語りは華があり、作品の大団円にふさわしい堂々たるものだったのです。そのおかげで如何にも活劇としての終わりを迎えることができました。 帰路の車内で、私は役目を終えた開放感と疲労で失神し、そのまま村上氏にアパートまで送ってもらいました。メンバー二人は大丈夫だというのに私だけ失神するとは何とも恥ずかしいことでした。

1987年2

春翠氏の初七日も過ぎしばらく経った頃、友人の事務所から私のバンドの担当作品が知らされました。D.W.グリフィス監督の「國民の創生」(The Birth of a Nation)という、2時間45分もある長編映画だと言います。南北戦争とK.K.K(クークラックスクラン)をテーマにした映画だというザックリした情報しか無く、更にマツダ映画社からビデオの貸し出しが遅れており、上映まで1ヶ月あまりという状態で作品も見た事がないので一先ずレンタルビデオ店に向かいました。その道では有名な作品らしく、すぐに見つかったので借りて観てみると… 古いシロクロ映画ならではの不鮮明な画像と結構な速い動きもさる事ながら、BGMで延々と繰り返されるヴィヴァルディの「四季」…映画作品自体はなるほど大作なのだと解りますが、音楽の当て方は本当に本当に「酷い」作りでした。友人に確認してみると、このBGMは別な発売元が著作権の切れているクラシックの曲を適当に入れてるだけだから当てにするなとの事。 そこでBGM無しでビデオを観ていると…いつの間にか寝てしまうのです。無音のままだと2時間45分はおろか始めの数分で集中が切れてしまうのです。始終不鮮明な画像と随所で出てくる英語の字幕に悪戦苦闘。読めないとストーリーも解らず、それでも頑張って目をこらしながら観るのですが、どうにもダメです。 当時バブル経済まっただ中であるにもかかわらず私のバイト先だった末端の下請け工場は安い時給で週6日フルタイム + 残業。場合によっては休日も出勤という、バイトとは思えない環境下で働いており終業後に帰宅してから観るので本当に大変でした。今でこそインターネットで検索すれば詳細なデータはもちろん動画もたくさん観る事が出来ますが、1987年当時はまだ未来の夢物語でした。 他にも数組のバンドがそれぞれの担当作品を与えられましたが我々のは群を抜いて長編で、本番までの期間を考えるとこれはとても一人では2時間45分を作曲するのは不可能と思い、我がバンドのベーシストで、自身も作・編曲を手がける村上聖氏と半分ずつ担当する事にしました。 しかし試写を進めていくうちに、この映画が人種差別に肯定的な作品であると思われ、私は憂鬱になり上映自体に大きな不安を覚えました。私自身は黒人に対して何の恨みも偏見も持っ

1987年1

1987 年の夏の夕暮れ、バイト先のお盆休みに同僚たちと海水浴に行った伊豆白浜から、ひどい渋滞と半ばやけどに近い日焼けに耐えながら帰宅すると、間も無く友人でもある音楽事務所のマネージャーから電話がありました。私はその事務所に所属していたわけではありませんが、友人は武蔵野音楽学院時代に学友を通じて知り合い、後に事務所のマネージャーとなってからも何かと目をかけてくれていました。電話の内容は、この秋に行われる東京国際映画祭に出品される古い無声映画に様々なバンドが音楽を付けて上映するという企画が上がり、私のバンドでも音楽を付けて生演奏してみないか?というお話でした。当時私は音楽学校を経てジャズロック系のトリオを組んでおり、技巧的な事にどっぷりハマりながら活動していました。第二回を迎えた東京国際映画祭は、立ち上がったばかりの大きなイベントでこれから勢いをつけようと躍起になっており、無声映画にバンドの演奏をつけるという企画は当時始まっていたバンドブームにあやかったものだったのだろうと思います。私は元来映画音楽は好きですしギターのコードカッティングを初めてかっこいいと思ったのも映画音楽でした。(Lip Stickという映画の音楽で内容自体はレイプ犯罪を取り上げたもの。今なら間違い無くR指定で、当時の私の歳では観れません。) 更にこれは仕事として成立…つまりギャラが頂けるとあって、喜んで引き受けたのでした。決して良いギャラではありませんでしたが、音楽だけでは食っていけず収入のほとんどをバイトでまかなっていた私にとっては、有名なイベントに音楽で参加してお金をいただくという事は、その金額以上に「プロ」の肩書きとして、とても大事でした。 話を進めていくと「マツダ映画社」という家族経営の無声映画専門事務所があり、友人はそこの社長兼弁士「松田春翠」のご次男と学友だとか。近々池袋で公演があるので顔合わせに行こうという事になりました。そして数日の後、池袋の会場にお邪魔すると、スタッフの皆さんが血相を変えて忙しく動き回っています。友人もただならぬ空気に動揺しつつ、ご次男を捕まえて話を聞いたところ、今日の弁士を務める予定だった松田春翠氏が今朝がた亡くなったと言います。後から知ったのですが春翠氏は末期ガンを患っており、病をおして舞台に立っていたそうです。腹水でお腹が腫れ上がっても休

気がつけば30年.....

ひょんなことから始めた無声映画楽士。気がつけばもう30年を越えて、私も50代になってました。かつてたくさん存在したはずの無声映画楽士達は、トーキーの台頭とクロスフェードしてほとんどその存在を主張するものを残さずこの世を去りました。時が経ち、ほんの僅かな手がかりから手探りで復元を始めた日本独特の無声映画音楽の在り方でした。そして遂に公の研究が始められ、私もその一員として参加させて頂くことができました。この出来事は近年で最も嬉しいことで、長年やり続けて本当に良かったと思えます。このようにようやく光が当たり始めた無声映画音楽を奏で、関東流の復元と進展に力を注いだ無声映画楽士の一人として、私や楽団に携わる皆さんとの生きた証を残したいと思い立ち、このブログを始めます。私事ながら2015年に他界した父が晩年レビー小体型認知症になったことで私にもその可能性がゼロではないと自覚し、ボケてしまう前に過去の記憶や現在進行形の出来事をここに書き残しておこうと思います。なお、過去の記憶を辿りながら全くもって私目線での書き込みなので「それ違うんじゃね?」的なツッコミは無しでお願いします(⌒-⌒; )