1988年、川崎クラブチッタにて

東京国際映画祭の翌年、友人の事務所の企画で川崎のクラブチッタを会場に、無声映画をモチーフとしたライブイベントを開催しました。当時のディスコ的な場内演出の中でチャップリンやキートンの短編のコメディー映画にDJが音をつけたり、我々もバンドで1925年版「オペラ座の怪人」に音をつけました。しかし、このイベントについては演者からすれば問題がありました。音楽の方がメインのイベントなので私も含めて作り手側は映画の場面編集を行いたいのです。しかし先述したように当時はまだパソコンを用いた動画編集技術は登場しておらず、業務用ビデオテープを使った大掛かりな編集スタジオが必要で、ほんのちょっとの編集でも数十万円、長編ならば数百万円の大金が必要でした。小さなイベントですから当然そのような予算はあるわけもなく、更に本番で用いる映画はフィルムで、ビデオへの複製は不可。もちろん貴重なフィルムを切り刻むなんて事は考えられません。つまり編集する事はできず、最初から普通に上映しなければなりません。アイディアはあっても形にできないもどかしさがありました。

事務所側は1984年のジョルジオ・モロダー版メトロポリスのイメージを持っていたようで我々にも同様なものを求めていました。モロダー版メトロポリスは発表当時こそフレディ・マーキュリー/パット・ベネター/ボニー・タイラーといった人気ロックアーティスト達の楽曲提供で作り上げ話題にはなりましたが、特に映画のために書き下ろされた感じの曲でも無く、それぞれの自己主張が強い楽曲だったため最終的には曲だけが一人歩きして、後にはそれらの曲がメトロポリスに提供されたものだという認識すら世間的には希薄になりました。一番メトロポリスに歩み寄っている楽曲は、やはりジョルジオ・モロダー自身の手がけたものでした。
このように世界的にかなり大掛かりなプロモーションを展開しても、無声映画自体は何か新しいものと掛け合わせれば復活するというものでもありませんでした。ただし、モロダーのこの大きなプロジェクトのおかげで完全に忘れ去られる事を免れた無声映画作品は少なくはないと思います。それだけでも彼の功績は多大なものだと感じます。


話を戻しましょう。クラブチッタで行われたイベントはマネージメント的にも演奏的にも、いろいろな点で消化不良に終わりました。終えてみて、私はバンドやDJといったその時流の音で無声映画にアプローチする事に違和感を感じていました。一歩間違えるとせっかくの作品が色物になりかねない…これはまずいな、と。

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