1987年3 東京国際映画祭 本番

本番の数日前にようやく完成し、村上氏と持ち寄った曲をバンドでリハをするためにスタジオに入ったのですが、これまた当時はタブレット型パソコンも液晶テレビも無い時代。ブラウン管のテレビとVHSビデオデッキを持ち込んで、スタジオのオールナイトパックで夜通し練習したのでした。昼間はバイトをしてましたから結局本番当日の朝まで、3人のメンバー全員がほぼ不眠不休のままリハーサルを重ねたのです。

本番の日の朝、最後の深夜リハーサルを原宿のスタジオで終えて村上氏の車に機材を積み込み、その足で会場へ向かいました。場所は有楽町マリオン。朝の部から3回上映し、ひどい倦怠感のため休憩時間に薬局で滋養強壮剤を買い、1日1本しか飲んではいけないものを合計3本飲み、しかも強いもの強いものへとシフトしていきました。この時、一部のミュージシャンが麻薬に手を染める気持ちが解った気がしました。もちろん私たちはユンケル止まりですが。
弁士は松田春翠氏の後継者となった澤登翠さんが大半を務め、終盤一番のクライマックスだけ大御所の美好千曲先生に交代するというやり方でした。ところが我々にとってこれもまた大きなストレスでした。語り口調が途中で大きく変わるため、調子が狂って音楽が合わせ辛くなってしまうのでした。澤登さんはスクリーン内の登場人物それぞれのキャラを演じるように声色を変え、比較的おとなし目でシリアスな口調で話すのですが、美好先生の交代部分はちょうどラストの乱闘シーンで
「何とここで敵が現れたってんだから、さぁ大変だ!召使だって黙っちゃいないよ。えい!こら!ざまあみろ、やっつけちゃったーぃ!」
といった具合に活劇口調で流れがガラッと変わるのです。この頃は私もまだ美好千曲先生のことをまるで存じ上げず、何で終盤に突然交代して語るのか解らなかったのです。当時の澤登さんはまだ松田春翠氏の後を継いだばかりで、関係筋からも不安視されていたので致し方無い事でした。事実、美好先生の語りは華があり、作品の大団円にふさわしい堂々たるものだったのです。そのおかげで如何にも活劇としての終わりを迎えることができました。

帰路の車内で、私は役目を終えた開放感と疲労で失神し、そのまま村上氏にアパートまで送ってもらいました。メンバー二人は大丈夫だというのに私だけ失神するとは何とも恥ずかしいことでした。

コメント

  1. 美好先生の活弁を生で聞けるなんて、それはそれですばらしいことですよね。でも、2時間45分は長いですね!

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  2. 本当にもったいない話で、あの時は無声映画のことを何も知らなかったので美好先生の活弁が聞ける有り難みが全然解っておりませんでした。今でも記憶に残っていたのが幸いです。

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