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本番前に睡眠薬かよ!?

1990年代の後期から2001年初頭まで数年間レギュラー化していたピアノの方は私より一回り以上年上で、名だたる方々のサポートを務めるベテランでした。先述もしましたこのピアニスト(この先はM氏とします)、仕事慣れしているので処理は早いのですが何かと個性的で自由人といいますか子供っぽいといいますか…とにかく「困ったちゃん」でした。 事の始まりは鈴木真紀子氏が別な仕事先で知り合い楽団に紹介してくれたのですが、彼は書き譜(クラシックの様に全て書いてある譜面)でもCメロ譜(メロディーとコードしか書いてない簡単な譜面)でも対応出来る人でした。これは初期の楽団に参加して頂いた鈴木厚志氏以降、私が待望していた人材でした。クラシックの演奏家の皆さんは楽譜に書かれた事は本当にパーフェクトに演奏して下さるのですが、現場での急な変更の場合は対応に時間がかかり、加えてクラシックの世界では用いないコードネームについては理解していないので、一度作った譜面をリハや現場で途中変更するという事は私にとって大きなエネルギーが必要でストレスでもありました。(正直、コードネーム勉強してくれよ~と思ってました。)また特に、無声映画の伴奏は1つの曲を数回繰り返して演奏する事は当たり前な上に曲の途中で終わる事も日常的でしたが、普通その様な演奏は巷には無いわけで無声映画独特の風習ですから、書いてないのに終わらせる様にするという現場処理に戸惑いと違和感を示した方も少なくありませんでした。 M氏はクラシック/歌謡界の両方を経験していたので上記の内容もそつなくこなせたのでした。これはそれまでの私の楽譜作成上のストレスを大きく軽減することになりました。 しかし…人はなくて七癖。M氏も別な部分ではなかなか困らせてくれました。 今でも忘れられないのが、ある年の東北地方に公演に行った時のことです。その時はワゴン車で移動だったのですが、高速道路の車内でM氏が 「最近眠れないんだよね~。だから睡眠薬を使ってるんだよ。」 と言い出しました。 「それは大変ですね」 と相槌を打ったまでは良かったのですが、もうすぐ現地に到着する頃に突然 「少し眠りたいから薬飲むね」 と言い出したのです。 「いや、ちょっと待ってください。もうすぐ現地に着くし、会場に入ったら早速準備をしなければならな

湯浅ピンハネ疑惑の真相

数日の後、少し落ち着いてから改めて事の次第を鈴木真紀子氏から聞いたところ、火種が何処だったかが判りました。 直訴騒動の少し前、 パーカッショニストから電話があったそうです。 彼はかなり酔っており、湯浅が許せないと怒りをあらわにしたのだそうです。そして「あいつは酷い奴だ。 俺は理不尽な理由で金を要求された。 それに最近のみんなのギャラが下がっているのはおかしい。きっと湯浅がピンハネしてるに違いない」と言ったそうです。 電話でひとしきりパーカッショニストの怒りの訴えを聞いた彼女は、当時レギュラー化していたピアニストにも意見を聞くため連絡したところ、彼もまたパーカッショニストの意見を後押しするような事を言ったのだそうです。 元来クレームをつける事に躊躇しない鈴木真紀子氏は、私を諸悪の根源だと思い込み正義の鉄槌を下すべく、仕事の発注元のマツダ映画社に直訴したという次第でした。 キャンペーン公演のドタキャン騒動の件でパーカッショニストが私を逆恨みしたという事。更にギャラの減額を不満に思ったピアニストがその話に便乗して根も葉もない嘘が、さも真実のように語られて話が大きくなり、鈴木真紀子氏をクレーマー化させたのでした。最終的に反乱軍の先頭に立った彼女は私に正義の爆弾を投下して、それが誤爆だったと悟った時には私は瀕死の状態だったという、何ともお粗末な出来事でした。 このあとマツダ映画社と話し合い、ギャラの支払いは同社から各出演者に直接行う事になりました。これからは金額のことで頭を痛めなくてもいいのだと思うと、私は気が楽になりました。 この騒動のすぐ後、長崎で公演がありました。私はなんとか正気を取り戻してはいたものの、楽団のレギュラーメンバーへの不信感でいっぱいでした。一緒にいるのが苦痛で、とにかく話したくないし離れていたい。なのに、こんな時に限って時間があって、ハウステンボスに行こうなどと提案されるのです。何事もなかったように楽しむメンバー達の笑顔が白々しく見え、さらに苦痛でした。この時の写真が手元に残っていますが、何とか笑顔を作っている自分がいます。 その後も私の不信感は全く絶える事がなく、心は閉ざしたままメンバーと接していました。鈴木真紀子氏は謝罪の時に私に一生ついて行くなどと言いましたが、正直なところ 全く信じて

湯浅がギャラをピンハネ?

パーカッショニストのドタキャン騒動の数日後、マツダ映画社から私に電話がありました。鈴木真紀子氏から直訴が来たというのです。直訴の内容は、 私が楽団の出演者達のギャラをピンハネしている疑いがある というものでした。もちろん事実無根です。 当時、仕事が減っただけでなく一回あたりの出演料の単価も減っていたのです。ギャラは前事務所の時と同じやり方で 私が一括して出演者達に支払っていました。 一人で4役やっており多少多めにもらっていた私は、自分のギャラを切り崩して他の出演者のギャラが下がらないように便宜を図っていました。しかし、それではもう間に合わないほど単価が下がり、ついに出演者達のギャラ単価を下げざるを得なくなったのです。その点について私は少し前に各メンバーに詫びて、厳しい状況なのでどうか理解して欲しいとお願いしたのですが、そんな矢先に彼女からの訴えがあったのです。 マツダ映画社はもちろん全ての仕事の出演料を把握しているので私への疑いが事実無根だと彼女に言いましたが、いずれにせよそういうゴタゴタが起こって会社に直接連絡が来たことは放っておけないので、私に報告したとの事でした。 私はショックでした。その日は奇しくも私の誕生日だったのですが、喪失感でいっぱいになりました。そのあと鈴木真紀子氏のところに電話をかけたのは覚えてますが、何を言ったのかはよく覚えていません。出来る限りの事はやったけれど、それでもみんなの信頼を得られなかった事がただただ残念だと言ったような気がします。 電話を切るとしばらくして鈴木真紀子氏から折り返し電話が来て、電話口で泣きながら「ごめんなさい。ごめんなさい。」とひたすら謝られましたが、すでに私の心はポッキリと折れていました。「 一生湯浅さんについていきます。 」と言われたのは覚えてますが、そんな言葉も空しく響くだけで私の心に訴えかける何ものも感じられず、ただただ深い悲しみと孤独に支配されていました。私はもう誰とも話したくないくらい失意のどん底なのに、電話口で泣きじゃくる彼女を無下にできず、仕方なく暫く慰めてから電話を切りました。 このとき、真剣に楽団を解散したいと思いました。 一人でイチから音楽を作り、パート譜をまとめ、映像を覚えながら進行手順を作り、楽団の演奏をまとめ、扱いについてのクレーム

キャンペーン公演のドタバタ

バブルが崩壊してもしばらく表向きには経済も勢いはありましたが、景気は次第に悪くなり公演依頼の本数も減少していきました。このままではせっかく復活させた和洋楽団が再び消滅しかねないという危惧もありました。そんな折、マツダ映画社からキャンペーン公演の相談がありました。内容は、レギュラーである私達に交通費と食費だけで出演に協力してくれないか?という事で、つまりノーギャラです。私は、公演作品は今まで音楽を作成したものだけに限るという条件をつけて協力する事にしました。パーカッショニストも同様に条件を呑みましたが、私の記憶が間違っていなければ鈴木真紀子氏は難色を示し、ヴァイオリニスト、ピアニストと同様にわずかでも出演料はもらう事にしたと思います。それは彼女にとってプロの演奏家としての曲げられない信念だったのでしょう。各々の考え方を曲げてまでやる必要は無いですし、協力を要請したマツダ映画社側がその条件を受け入れたのならそれで良いので、私は不問としました。 事件は初めてのキャンペーン公演の数日前に起こりました。パーカッショニストが電話で突然 参加できない と言ってきたのです。理由を聞いても話さず、ただ「参加できない」の一点張りでした。今回我々はノーギャラで協力する事になっているのでそれは困ると言ったのですが、とにかく頑なで取りつく島がありません。 キャンペーンの公演先には上映作品はもとより 楽器構成と人数を告知済み。宣伝もしていたので編成が急に変わる事は楽団にとって信用問題に関わってきます。 せめて同条件で引き受けてくれる代役を探してほしいと言いましたが、 即答で誰もいない と言うのです。ここまで来ると私は彼の無責任な言動に腹が立ちました。そこで私は、前言を簡単にひるがえした彼にお灸を据えようと思い、次の提案をしました。いや、提案というより命令です。 ノーギャラのボランティアとはいえ、一度は了承したものを理由も言わずにドタキャンするのはあまりに無責任。 楽団の対外的な信用も揺るがしかねない 。そのうえ代役も立てられないというなら、代役はこちらで探す。ただし、今回の君の無責任なキャンセルに対して、私が探した代役の演奏者にノーギャラという割りを食わす事は出来ない。よって今回のドタキャンの責任を取って君から代役の人にギャラを払え、と。 この件につ

ヴァイオリニストが行方不明

カラード・モノトーンとして活動を始めてしばらく経った頃、国立フィルムセンター(現:国立映画アーカイブ)から公演依頼がありました。鈴木真紀子氏は音大時代の学友でもあるヴァイオリニストに出演を依頼しました。本番まで期間も長かったのでスケジュールは容易く押さえることができ安心していました。 リハーサルの日、スタジオ入りしたところ待てど暮らせどヴァイオリニストが来ません。鈴木真紀子氏も焦りの色を隠せずしきりに電話をしますが応答がありません。つまりこの時点でヴァイオリニストは行方不明になりました。そしてこの後、とんでもない事実が発覚します。 実はこのヴァイオリニスト、我々の仕事を受けた後にウイーン行きが決定し、舞い上がった彼女は 仕事を受けたことをすっかり忘れて渡欧してしまった のです 。 しかもこちらから連絡されるまで完全に忘れていたという…全ては後の祭り。本番を翌日に控えて別なヴァイオリニストを依頼することもできず、仕方なくインペグ屋(ミュージシャンの派遣をする事務所)から知らないヴァイオリニストを呼びました。 やってきたヴァイオリニストはまだ若く、音大生か卒業したてといった風貌で、鼻っ柱がやたらと強く自信満々。それでいて 演奏はまるっきりダメでした。 急遽依頼したのでこんな演奏者しかいなかったのでしょうが、リハではミスを連発して音程も悪く、恐らく素人が聴いても決して上手とは言わないだろうというレベル。それでも百歩譲って温厚に 「本番でしっかりやってくれればいいので~」 といった私ですが、 本番までの間まったく練習しない のです。それどころかギャラの支払いの確認を自分の事務所に電話して、そのまま本番に出ましたから同じミスをまた連発。演奏中、こんな奴にギャラを払うのかと思うと腹立たしさでいっぱいでした。 完全に頭にきた私は公演が終わるやいなや、一言言ってやろうと探しましたが敵もさる者でさっさと会場を後にしていました。(クラシックの方々の帰り支度は本当に早い!あれは特殊能力です) 最初に依頼したバイオリニストは公演をすっぽかして渡欧してしまい、仕方なくインペグ屋に手配して呼んだヴァイオリニストは出来損ないの音大生のようなアルバイト…このときの屈辱は筆舌に尽くし難く腹わたが煮えくりかえるほどでした。 しかし、この時

Colored Monotone誕生秘話

人間関係では色々あれど仕事的には順調と思われた和洋楽団ですが、次第に仕事量が減っていきました。事務所(ここではA事務所とします)では我々以外にも様々な出し物を売ってたので致し方ないとは思っていたのですが、ある日ある事を聞き愕然としました。学校での芸術鑑賞会に於いてフィルムの貸し出しと現場での上映担当であるマツダ映画社に、2年ほど前に無声映画公演を行った高校の担当者から直接打診があり、A事務所を通さずに公演をお願いできないかとの問い合わせがあったのです。通常ならパートナーシップを結んだA事務所を通さずに直接取引するのはルール違反なのですが、話の経緯を伺ったところ、そうも言っていられない事態になっていました。学校の職員会議で再び無声映画を上映したいとの意向があったのですが、その際にA事務所の事が議題に上がり、かなりの悪評だったのです。そればかりか、悪評は他の中学校/高校からも上がっており、少なくともその県内では一同に「A事務所にはもう頼まない」という話が出ていたのでした。こういった話から察するに、仕事量が減った原因は各クライアントからA事務所に対する不満、不信感だったのです。 思わぬ形でマツダ映画社より相談を受けた私も戸惑ったのですが、今まで突っ込んだお話をした事がなかったのでざっくばらんな意見交換を行いました。そのお話の際に驚いたのが、いち公演に対しての同社の利益配当でした。考えられないほどの安い配当金だったのです。私は、安いのは楽団だけだと思ってました。さらにその支払いも遅配が続いており、一部がまだ回収できていないといいます。楽団側もギャラが期日どおりに支払われないことが多々あり、その度に事務所に連絡をすると社長がお出になり憮然とした態度で応対されました。こちらは低姿勢でいつ頃支払いが可能か伺うのですが、大抵は軽く逆ギレされて「すぐ払うから2~3日待って」と言われ早々に電話を切られました。出演者に対しては私が支払い元となっていたので、中には信用問題を取り出して迫られることもあり、問い合わせの度に困っていたのでした。 A事務所が多額の借金を抱えていたのは関係筋の話で知っていましたし、いち公演あたりの総予算も知っておりました。A事務所が1日も早く借金をなくしたいという思いは十分理解できますが、その借金返済のために出演者や関連会社にかな