湯浅ピンハネ疑惑の真相


数日の後、少し落ち着いてから改めて事の次第を鈴木真紀子氏から聞いたところ、火種が何処だったかが判りました。
直訴騒動の少し前、パーカッショニストから電話があったそうです。彼はかなり酔っており、湯浅が許せないと怒りをあらわにしたのだそうです。そして「あいつは酷い奴だ。俺は理不尽な理由で金を要求された。それに最近のみんなのギャラが下がっているのはおかしい。きっと湯浅がピンハネしてるに違いない」と言ったそうです。
電話でひとしきりパーカッショニストの怒りの訴えを聞いた彼女は、当時レギュラー化していたピアニストにも意見を聞くため連絡したところ、彼もまたパーカッショニストの意見を後押しするような事を言ったのだそうです。
元来クレームをつける事に躊躇しない鈴木真紀子氏は、私を諸悪の根源だと思い込み正義の鉄槌を下すべく、仕事の発注元のマツダ映画社に直訴したという次第でした。

キャンペーン公演のドタキャン騒動の件でパーカッショニストが私を逆恨みしたという事。更にギャラの減額を不満に思ったピアニストがその話に便乗して根も葉もない嘘が、さも真実のように語られて話が大きくなり、鈴木真紀子氏をクレーマー化させたのでした。最終的に反乱軍の先頭に立った彼女は私に正義の爆弾を投下して、それが誤爆だったと悟った時には私は瀕死の状態だったという、何ともお粗末な出来事でした。

このあとマツダ映画社と話し合い、ギャラの支払いは同社から各出演者に直接行う事になりました。これからは金額のことで頭を痛めなくてもいいのだと思うと、私は気が楽になりました。

この騒動のすぐ後、長崎で公演がありました。私はなんとか正気を取り戻してはいたものの、楽団のレギュラーメンバーへの不信感でいっぱいでした。一緒にいるのが苦痛で、とにかく話したくないし離れていたい。なのに、こんな時に限って時間があって、ハウステンボスに行こうなどと提案されるのです。何事もなかったように楽しむメンバー達の笑顔が白々しく見え、さらに苦痛でした。この時の写真が手元に残っていますが、何とか笑顔を作っている自分がいます。

その後も私の不信感は全く絶える事がなく、心は閉ざしたままメンバーと接していました。鈴木真紀子氏は謝罪の時に私に一生ついて行くなどと言いましたが、正直なところ全く信じていませんでした。謝罪の勢いで言っただけでデマカセに違いない。いつボロを出すか見届けてやると思っていました。
しかし私の予想に反して彼女は全く人が変わったようになりました。何か事が起こった時、以前なら自分が先頭に立って私にクレームを言ってきたのに、その後は他の出演者をなだめて説得する側にまわったのです。それもいつまで続くかとしばらくは冷ややかに見ていましたが、全く変わる気配がありません。
このように献身的に対応する姿に、私は少しずつ彼女への不信感を解いていきました。そして本当に彼女を許し、やがて自分の右腕と呼び、後に影のバンマスなどと冗談が言えるようになったのです。彼女も後に芹洋子さんをはじめとする歌謡界の仕事が増え、いわゆる「こちらの世界」の常識も多々経験することになって更に柔軟になり、話のわかる相棒となってくれています。

この件に関してパーカッショニストとピアニストに関しては不問としました。彼らのしたことは明らかに私に対する裏切り行為でしたが、当のパーカッショニストは泥酔していたため自分のしたことを覚えていないのです。誰のせいでそうなったのか…これには呆れて何も言えませんでした。
次にピアニストは、ベテランの年長者で技術と経験は豊富でしたが元来お調子者で少々ずる賢く、彼と同年輩の先輩方からは問題視されていた人でした。腹立たしくはありましたが彼らをクビにしたところですぐに後釜が見つかるわけでもなく、また私の状況説明が行き届かず誤解を招いたことも事実だったので不問としたわけです。なお、この件に関して私が事実を知っていることを彼らは今も知らないでしょう。知らぬが仏です。ただ残念な事に、このピアニストは後に不祥事を起こした為に楽団から解雇することになりました。

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