ヴァイオリニストが行方不明


カラード・モノトーンとして活動を始めてしばらく経った頃、国立フィルムセンター(現:国立映画アーカイブ)から公演依頼がありました。鈴木真紀子氏は音大時代の学友でもあるヴァイオリニストに出演を依頼しました。本番まで期間も長かったのでスケジュールは容易く押さえることができ安心していました。

リハーサルの日、スタジオ入りしたところ待てど暮らせどヴァイオリニストが来ません。鈴木真紀子氏も焦りの色を隠せずしきりに電話をしますが応答がありません。つまりこの時点でヴァイオリニストは行方不明になりました。そしてこの後、とんでもない事実が発覚します。

実はこのヴァイオリニスト、我々の仕事を受けた後にウイーン行きが決定し、舞い上がった彼女は仕事を受けたことをすっかり忘れて渡欧してしまったのですしかもこちらから連絡されるまで完全に忘れていたという…全ては後の祭り。本番を翌日に控えて別なヴァイオリニストを依頼することもできず、仕方なくインペグ屋(ミュージシャンの派遣をする事務所)から知らないヴァイオリニストを呼びました。

やってきたヴァイオリニストはまだ若く、音大生か卒業したてといった風貌で、鼻っ柱がやたらと強く自信満々。それでいて演奏はまるっきりダメでした。急遽依頼したのでこんな演奏者しかいなかったのでしょうが、リハではミスを連発して音程も悪く、恐らく素人が聴いても決して上手とは言わないだろうというレベル。それでも百歩譲って温厚に「本番でしっかりやってくれればいいので~」といった私ですが、本番までの間まったく練習しないのです。それどころかギャラの支払いの確認を自分の事務所に電話して、そのまま本番に出ましたから同じミスをまた連発。演奏中、こんな奴にギャラを払うのかと思うと腹立たしさでいっぱいでした。
完全に頭にきた私は公演が終わるやいなや、一言言ってやろうと探しましたが敵もさる者でさっさと会場を後にしていました。(クラシックの方々の帰り支度は本当に早い!あれは特殊能力です)

最初に依頼したバイオリニストは公演をすっぽかして渡欧してしまい、仕方なくインペグ屋に手配して呼んだヴァイオリニストは出来損ないの音大生のようなアルバイト…このときの屈辱は筆舌に尽くし難く腹わたが煮えくりかえるほどでした。

しかし、この時にすっぽかして海外渡航という大失態を犯し、私的にもう二度と関わりたくも無いと思ったヴァイオリニストが、数年後に起こったアクシデントから楽団を救うことになるのでした。それはまた後述ということで…。

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