キャンペーン公演のドタバタ


バブルが崩壊してもしばらく表向きには経済も勢いはありましたが、景気は次第に悪くなり公演依頼の本数も減少していきました。このままではせっかく復活させた和洋楽団が再び消滅しかねないという危惧もありました。そんな折、マツダ映画社からキャンペーン公演の相談がありました。内容は、レギュラーである私達に交通費と食費だけで出演に協力してくれないか?という事で、つまりノーギャラです。私は、公演作品は今まで音楽を作成したものだけに限るという条件をつけて協力する事にしました。パーカッショニストも同様に条件を呑みましたが、私の記憶が間違っていなければ鈴木真紀子氏は難色を示し、ヴァイオリニスト、ピアニストと同様にわずかでも出演料はもらう事にしたと思います。それは彼女にとってプロの演奏家としての曲げられない信念だったのでしょう。各々の考え方を曲げてまでやる必要は無いですし、協力を要請したマツダ映画社側がその条件を受け入れたのならそれで良いので、私は不問としました。

事件は初めてのキャンペーン公演の数日前に起こりました。パーカッショニストが電話で突然参加できないと言ってきたのです。理由を聞いても話さず、ただ「参加できない」の一点張りでした。今回我々はノーギャラで協力する事になっているのでそれは困ると言ったのですが、とにかく頑なで取りつく島がありません。キャンペーンの公演先には上映作品はもとより楽器構成と人数を告知済み。宣伝もしていたので編成が急に変わる事は楽団にとって信用問題に関わってきます。
せめて同条件で引き受けてくれる代役を探してほしいと言いましたが、即答で誰もいないと言うのです。ここまで来ると私は彼の無責任な言動に腹が立ちました。そこで私は、前言を簡単にひるがえした彼にお灸を据えようと思い、次の提案をしました。いや、提案というより命令です。

ノーギャラのボランティアとはいえ、一度は了承したものを理由も言わずにドタキャンするのはあまりに無責任。楽団の対外的な信用も揺るがしかねない。そのうえ代役も立てられないというなら、代役はこちらで探す。ただし、今回の君の無責任なキャンセルに対して、私が探した代役の演奏者にノーギャラという割りを食わす事は出来ない。よって今回のドタキャンの責任を取って君から代役の人にギャラを払え、と。
この件についての対応は私は今もなお全く間違っていないと信じています。しかしこの時のやり取りが後に私にとって大打撃を食らう事になるとは、まだ知る由もありませんでした。

ドタキャンしたパーカッショニストの代わりに、急遽初代の楽団メンバーの野村修氏が来てくれました。彼は相変わらず気さくな男で、ぶっつけ本番にも関わらず最適な対応をしてくれました。こうして初めてのキャンペーン公演は事なきを得て無事に終わったのです。

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