Colored Monotone誕生秘話


人間関係では色々あれど仕事的には順調と思われた和洋楽団ですが、次第に仕事量が減っていきました。事務所(ここではA事務所とします)では我々以外にも様々な出し物を売ってたので致し方ないとは思っていたのですが、ある日ある事を聞き愕然としました。学校での芸術鑑賞会に於いてフィルムの貸し出しと現場での上映担当であるマツダ映画社に、2年ほど前に無声映画公演を行った高校の担当者から直接打診があり、A事務所を通さずに公演をお願いできないかとの問い合わせがあったのです。通常ならパートナーシップを結んだA事務所を通さずに直接取引するのはルール違反なのですが、話の経緯を伺ったところ、そうも言っていられない事態になっていました。学校の職員会議で再び無声映画を上映したいとの意向があったのですが、その際にA事務所の事が議題に上がり、かなりの悪評だったのです。そればかりか、悪評は他の中学校/高校からも上がっており、少なくともその県内では一同に「A事務所にはもう頼まない」という話が出ていたのでした。こういった話から察するに、仕事量が減った原因は各クライアントからA事務所に対する不満、不信感だったのです。

思わぬ形でマツダ映画社より相談を受けた私も戸惑ったのですが、今まで突っ込んだお話をした事がなかったのでざっくばらんな意見交換を行いました。そのお話の際に驚いたのが、いち公演に対しての同社の利益配当でした。考えられないほどの安い配当金だったのです。私は、安いのは楽団だけだと思ってました。さらにその支払いも遅配が続いており、一部がまだ回収できていないといいます。楽団側もギャラが期日どおりに支払われないことが多々あり、その度に事務所に連絡をすると社長がお出になり憮然とした態度で応対されました。こちらは低姿勢でいつ頃支払いが可能か伺うのですが、大抵は軽く逆ギレされて「すぐ払うから2~3日待って」と言われ早々に電話を切られました。出演者に対しては私が支払い元となっていたので、中には信用問題を取り出して迫られることもあり、問い合わせの度に困っていたのでした。

A事務所が多額の借金を抱えていたのは関係筋の話で知っていましたし、いち公演あたりの総予算も知っておりました。A事務所が1日も早く借金をなくしたいという思いは十分理解できますが、その借金返済のために出演者や関連会社にかなり無茶な条件を提示して仕事をさせていたのであれば大変な問題です。そして何よりA事務所の悪評により我々まで悪影響が出てしまうのは絶対に避けたいことでした。

話を聞き進めていくと、この業務提携について書面での正式な契約は交わしていないとの事。そこで今後はマツダ映画社が窓口となり私が同社と直に仕事をしていくということで話がまとまりました。ただA事務所側に非があるにしても、口約束とはいえこの時点でパートナーシップ解消ともなれば相手も黙ってはいないだろうと思い、今までの楽団は存続させたまま新楽団を作って動いていく事にしました。

A事務所とは別行動をするために楽団名も変える事にしました。そもそもA事務所がつけた楽団名は外面がよく綺麗事を取って付けたようで長ったらしく心の底から嫌いだったので、もっと短くて意味のある名前にしようと考えたのです。
私は考えました…色彩豊かな音を白黒の映像に…色彩と白黒…カラーとモノトーン…あ!カラード・モノトーン!!
冗談みたいな話ですがこのようにして和洋楽団カラード・モノトーンは誕生しました。じつは私は東北の生まれ育ちなので「…と」という接続詞が「…ど」と訛るのです。しかも「Colored Monotone」は造語なのでこれは良いと自画自賛しました。
楽団の主要メンバーは私とフルートの鈴木真紀子氏、パーカッションは変わらず。ヴァイオリンとピアノについては事務所のメンバーを使う必要が無くなったので、以前よりも広く募ることができるようになりました。

ここで疑問に思った人もいるでしょう。なぜ私にとって天敵だった鈴木真紀子氏が残っているのか。これを機会に袂を別つこともできたのに。これには幾つかの理由があります。綺麗事は言わず洗いざらい書き出します。

◎いずれは呼び戻そうと思っていた最初のメンバーたちがそれぞれの道を歩みはじめ、もはや以前のように集まることが難しくなっていたこと。

◎彼女の演奏者としての実力と責任感の強さには一目置いていたこと。

◎無声映画楽士という仕事に誇りを持っていてくれたこと。

◎そして…長い間一緒に活動しているうちに、何となく憎めなくなったという処です。

また彼女の人脈は素晴らしいもので、幾人ものヴァイオリニストとピアニストをピックアップすることができました。本当は全てのパートを固定したメンバーで活動したかったのですが、それは不可能なことでした。なぜなら多くのヴァイオリニストやピアニストはあくまでもクラシックの世界で名を上げたいので、楽団のレギュラーメンバーになることは難しかったのです。それどころか、初めにこちらの仕事を受けていても、後からより魅力的な仕事が入れば代役を立ててこちらの仕事を蹴ってしまう人もいました。常識的に考えて一般社会でそのようなことをしたら責任感を問われて仕事を干されてしまう恐れもありますが、彼らの多くにとってクラシックこそが唯一の音楽で、本業ではない仕事は干されても一向に構わない部類だったのです。実家が裕福で、いざとなれば生活に苦労しなくて済む人が多いことも起因していたと思います。
更にこれも常識の違いで、私は一人の演奏家の個性と能力を見込んで演奏をお願いしているのですが、オーケストラでの常識に慣れている彼らは代役さえ立てれば問題が無いと思っていました。
次回はこういった思考が招いた、楽団にとっての大惨事をご紹介しましょう。

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