湯浅がギャラをピンハネ?


パーカッショニストのドタキャン騒動の数日後、マツダ映画社から私に電話がありました。鈴木真紀子氏から直訴が来たというのです。直訴の内容は、私が楽団の出演者達のギャラをピンハネしている疑いがあるというものでした。もちろん事実無根です。

当時、仕事が減っただけでなく一回あたりの出演料の単価も減っていたのです。ギャラは前事務所の時と同じやり方で私が一括して出演者達に支払っていました。一人で4役やっており多少多めにもらっていた私は、自分のギャラを切り崩して他の出演者のギャラが下がらないように便宜を図っていました。しかし、それではもう間に合わないほど単価が下がり、ついに出演者達のギャラ単価を下げざるを得なくなったのです。その点について私は少し前に各メンバーに詫びて、厳しい状況なのでどうか理解して欲しいとお願いしたのですが、そんな矢先に彼女からの訴えがあったのです。
マツダ映画社はもちろん全ての仕事の出演料を把握しているので私への疑いが事実無根だと彼女に言いましたが、いずれにせよそういうゴタゴタが起こって会社に直接連絡が来たことは放っておけないので、私に報告したとの事でした。

私はショックでした。その日は奇しくも私の誕生日だったのですが、喪失感でいっぱいになりました。そのあと鈴木真紀子氏のところに電話をかけたのは覚えてますが、何を言ったのかはよく覚えていません。出来る限りの事はやったけれど、それでもみんなの信頼を得られなかった事がただただ残念だと言ったような気がします。

電話を切るとしばらくして鈴木真紀子氏から折り返し電話が来て、電話口で泣きながら「ごめんなさい。ごめんなさい。」とひたすら謝られましたが、すでに私の心はポッキリと折れていました。「一生湯浅さんについていきます。」と言われたのは覚えてますが、そんな言葉も空しく響くだけで私の心に訴えかける何ものも感じられず、ただただ深い悲しみと孤独に支配されていました。私はもう誰とも話したくないくらい失意のどん底なのに、電話口で泣きじゃくる彼女を無下にできず、仕方なく暫く慰めてから電話を切りました。

このとき、真剣に楽団を解散したいと思いました。
一人でイチから音楽を作り、パート譜をまとめ、映像を覚えながら進行手順を作り、楽団の演奏をまとめ、扱いについてのクレームを受けては謝罪し、終演後には即座に誰もいなくなり、ギャラを支払えばそれまで。そのうえギャラの金額が下がった事でピンハネの疑いまで掛けられる…こんな薄っぺらな人間関係に心底嫌気がさしました。そのあとは食事も喉を通らず、自分を立て直す事に精一杯でした。暑くて天気のいい日で、夕焼けが眩しい日でした。
ただ、この時点で私はまだこの事件の真相を知らずにいたのです。

コメント

このブログの人気の投稿

気がつけば30年.....

1987年2

1987年3 東京国際映画祭 本番