1987年1


1987年の夏の夕暮れ、バイト先のお盆休みに同僚たちと海水浴に行った伊豆白浜から、ひどい渋滞と半ばやけどに近い日焼けに耐えながら帰宅すると、間も無く友人でもある音楽事務所のマネージャーから電話がありました。私はその事務所に所属していたわけではありませんが、友人は武蔵野音楽学院時代に学友を通じて知り合い、後に事務所のマネージャーとなってからも何かと目をかけてくれていました。電話の内容は、この秋に行われる東京国際映画祭に出品される古い無声映画に様々なバンドが音楽を付けて上映するという企画が上がり、私のバンドでも音楽を付けて生演奏してみないか?というお話でした。当時私は音楽学校を経てジャズロック系のトリオを組んでおり、技巧的な事にどっぷりハマりながら活動していました。第二回を迎えた東京国際映画祭は、立ち上がったばかりの大きなイベントでこれから勢いをつけようと躍起になっており、無声映画にバンドの演奏をつけるという企画は当時始まっていたバンドブームにあやかったものだったのだろうと思います。私は元来映画音楽は好きですしギターのコードカッティングを初めてかっこいいと思ったのも映画音楽でした。(Lip Stickという映画の音楽で内容自体はレイプ犯罪を取り上げたもの。今なら間違い無くR指定で、当時の私の歳では観れません。)
更にこれは仕事として成立…つまりギャラが頂けるとあって、喜んで引き受けたのでした。決して良いギャラではありませんでしたが、音楽だけでは食っていけず収入のほとんどをバイトでまかなっていた私にとっては、有名なイベントに音楽で参加してお金をいただくという事は、その金額以上に「プロ」の肩書きとして、とても大事でした。

話を進めていくと「マツダ映画社」という家族経営の無声映画専門事務所があり、友人はそこの社長兼弁士「松田春翠」のご次男と学友だとか。近々池袋で公演があるので顔合わせに行こうという事になりました。そして数日の後、池袋の会場にお邪魔すると、スタッフの皆さんが血相を変えて忙しく動き回っています。友人もただならぬ空気に動揺しつつ、ご次男を捕まえて話を聞いたところ、今日の弁士を務める予定だった松田春翠氏が今朝がた亡くなったと言います。後から知ったのですが春翠氏は末期ガンを患っており、病をおして舞台に立っていたそうです。腹水でお腹が腫れ上がっても休むことなく、前日も舞台を終え自室に戻って就寝したそうですが、早朝亡くなっているのを家族が発見したとの事でした。今日の舞台は弟子の女性弁士、澤登翠さんが代役を務める事になり、その舞台の準備と春翠氏の葬儀の手配で会場はごった返しており、とても顔合わせなど出来る状況ではなく早々に退散したのでした。私にとって何とも間の悪い出来事だったのですが、今思えば春翠氏が亡くなった当日に私が楽士を務める報告に伺ったのは、何かしら因縁めいたものを感じています。

コメント

  1. あら。そんなタイミングだったのですね。なんだか運命を感じます。春翠先生のお引き合わせですよ、きっと。

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    1. そうだったのかなぁと感じています。

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