楽曲復元事始め/Part2

先述のように関東流と関西流では弁士との絡み方も楽器編成も異なります。また特に時代劇では歌舞伎の下座音楽の流用が多く、しかし歌舞伎本来の場面設定とは全く異なる使い方をされています。当時の大衆的には聞き覚えのある歌舞伎の音楽が活動写真館で聞こえてくるのは親しみがあったでしょうし、それらは和楽器と洋楽器で演奏されるという、当時としては新しい音だったでしょう。映画作品の内容に沿って充てた音楽が歌舞伎での使用法とは違うとはいえ、一般大衆でそこまで詳しく精通していた人は稀と思われ、歌舞伎の場面設定と違う音楽が流れても違和感を訴える人は殆どいなかったと思います。なにより「文明開化はエレキ応用。ものが動く活動の大寫眞」和洋折衷の楽器編成で奏でられる音楽を用いた最先端のこの娯楽は、この上なく贅沢な時間だったことでしょう。

明治以前の日本の音楽は西洋的な和声の概念は無く、全ての楽器が陽音律/陰音律に基づいた、ほぼユニゾンあるいはオクターブユニゾンが主です。違う旋律が出てきたとしても、それは西洋の長調/短調とは異なる響きです。故にコロムビアの無声映画伴奏譜では汎用のメロディー譜のみを書き記し、あとは楽器編成によって各々の楽団が書き移すと同時にアレンジも施すいう手法をとったと思われます。また、コロムビアの無声映画伴奏譜以外にも楽譜は出版されており、更には特定の映画の専用音楽集もあったことが後々わかりました。


渋谷氏の残した録音物の中に所々異なる部分があるのも上記の理由がひとつあったと思われます。あと、これはこの時点ではあくまでも私の推察でしたが、劇場に出向いて聴いた音楽を記憶し、のちに写譜したと思われる曲もあります。楽譜は昔も今も決して安価ではありません。ですから聴いてコピーする、いわゆる「耳コピ」の能力があれば、低コストで同じ曲が手に入るわけで当然思いつく発想です。ただ、おそらく聴いたその場で書き記す事は流石に目立ちすぎますし、演者側も曲を盗みにきた相手をみすみす野放しにはしないでしょうから、聴き終えて劇場を出てから書き出したのではないかと思われます。その際に記憶の曖昧さが生じ、調や話声、構成が変わってしまった曲がそのまま他所で演奏されたのでは無いかと推察しています。(近年「平野コレクション」の発見により、その中の採譜物によって確信へと変わっております。)

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