三味線を始めたわけ

楽団の楽器編成で私を悩ませたのは三味線や「鳴り物」と呼ばれる鐘や太鼓類の邦楽器の存在でした。中でも三味線については急務だったのですが、邦楽の世界に全く伝のなかった私は三味線奏者が用意できずにいました。更にそれは予算の面からも同様で、事務所からも予算増額を拒否され、もう一人たりも増やす余裕はありません。…で、切羽詰まってこんな浅知恵を思いついたのです。

「私はギタリスト。同じ弦楽器ではあるので、ひょっとしたら自分でもできるのでは?」

なんとも恐ろしい発想です。しかし和楽器無しで時代劇を伴奏することは不可能。無声映画専門の楽団としては不完全なのです。そして、楽器さえあれば自分でなんとかできるはず!という思いが強くなっていったのでした。

そんな時、音楽学校時代の恩師のご親戚が亡くなり、形見分けで三味線を貰ったと連絡があったのです。あまりにも出来すぎたタイミングですが事実です。それで恩師にお願いし、その三味線を無期限で借り受ける事ができました。三味線は地唄用のもので皮も破れておらず、べっ甲と象牙でできた高価な撥も付いてました。しかしあまりに高級過ぎて、貸与されているあいだ私はこの撥を一度も使う事はありませんでした。

さて、三味線は手に入れたものの、ギターと違って一般的ではない三味線の奏法に関する詳しい解説書など、どこの本屋にもありません。私の住まいからほど近い場所に和楽器店があり、試しにそこのご店主兼先生に伺ったところ三味線教室の門下生となり稽古を受けなければならないのですが、問題はその月謝の金額です。先生によってバラバラですが、伺った中で当時一番安かった先生で3万円弱!……実は私のギターのレッスン料よりはるかに高く、なんとか生活していた身にはとても月々そんな大金は払えませんでした。

しかも邦楽の世界では師弟のあいだに様々なしきたりがありました。例えば、自分の師匠が公演ともなるとチケットをさばかなければならず、ノルマの分は買取なのでお弟子さん達は最終的には空席を出さないためにタダで知人にあげたりしてらっしゃいました。また公演当日はお祝いと称して何がしかのお金も別に包んで出さなければなりません。お師匠さんの方もお返しとしてそれ相応の金額のお土産を出していたので、私から見れば「win,win」ならぬ「lose.lose」な関係なのですが、とにかく邦楽の世界は関わることによって大変お金がかかるので、習うことは絶望的でした。

そんなある日、お借りした三味線の糸(西洋楽器でいう弦のこと)が切れてしまい、交換用の糸を買いに先述の和楽器店を訪れたところ、ご店主は留守でお弟子さんが店番をしていました。交換用の糸を購入し店内の三味線を見渡すと、ほとんどが数十万円のものばかり。これでは自分のものを手に入れるなど到底できないと思っていたところ、お弟子さんが私に話しかけてきました。
「どのくらい三味線をやっているんですか?誰についているんですか?」等と尋ねてきたのです。私は正直に誰にも付いておらず独学であると言い、本来はギターが専門で「三味線もギターと似たようなもんじゃないんですか?」と言いました。

するとお弟子さんは俄かに顔色を変え、店内の三味線を手渡すと「構えてみなさい!」と言うのです。どうやら私の言い方が癇に障ったようです。私は何となく構えてみると「全然なってない!構え方も知らないの?」と言って半ば怒りながら私に教え始めました。私はこれ幸いと下手に出ながらお弟子さんをおだてて、構え方や糸の押さえ方、撥の持ち方、調弦の種類など基本的な事についてを習いました。私が欲しかった情報が糸の代金だけで手に入ったのです。

ちょうどそこにご店主が帰ってきて、これはぼちぼち潮時と思い「すみませんでした!三味線の事ナメてました!失礼します!」と言ってそそくさと出て行きました。ご店主は留守中にお弟子さんが私に何をしたのか悟ったようで、怪訝そうな顔をして店を出る私を見ていました。

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