新事務所からの打診

翌年の初め、当時私がギター講師をしていた音楽教室の社長から呼び出しを受けました。日頃から機嫌がコロコロ変わる人で典型的なワンマン。正直なところ私は苦手なタイプでした。機嫌が悪いと扱いづらい事この上ないので恐る恐る事務所に入ると、社長はチラッとこちらを見て、あとは仏頂面で禁煙パイプをくわえながら他所に目をやったままで話し始めました。しかしその内容は私にとっては意外なものでした。

社長は無声映画の上映に興味があると仰います。そこは音楽事務所も併設しており、とりわけ中学・高校の芸術鑑賞会を多く扱っていました。そこで、中高の芸術鑑賞会に無声映画を売り込みたいというのです。無声映画楽士を始めたものの開店休業状態が長く続いていた私は、仕事になるなら是非お願いしたいと言いました。しかし、先方からは二つの条件がありました。

1、私に無声映画公演を世話してくれた友人の事務所が手を引く事。
2、演奏者はこの事務所に所属する演奏家で固める事。

この二つの条件をのまなければ仕事は回さないと言われました。
どちらも私にとっては気の重い条件でした。私の事をいつも気にかけてくれて、無声映画の伴奏を紹介してくれた友人に、手を引いて欲しいと言いうのは恩を仇で返すようなものです。しかし、一方で現実問題として友人の事務所では営業が上手く回っていなかったのも事実で、せっかく組織した楽団も前年の公演のあと仕事は皆無。正直なところ、もっと仕事量を増やしたいという思いも強かったのでした。

決心して私は友人に連絡を取り、事の次第を全て正直に話しました。激怒され責められる事を覚悟していたのですが、彼は逆に自らの力不足で仕事が回らない事を詫び、手を引く事を承諾してくれました。私はこの時の事を、今でも本当に申し訳なかったと思っています。


もう一つの条件、この事務所に所属の演奏家を起用する件については、前年一緒に演奏したメンバーに「一先ず新事務所の条件をのんで先方の指定する演奏家にお願いするけど、きっと呼び戻すから」と言いました。いずれ少し時間が経てば、きっと私の言い分は事務所に通るようになると思っていました。
しかし現実はそうそう甘くはありませんでした。

ちなみに先述の事務所の友人はこの後もミュージシャンとしての私の力を大いに買ってくれて、あるプロジェクトのオーディションへ斡旋してくれたのです。結果的に私はそのプロジェクトに参加することになり、短期間で濃密な多くの出来事をもたらしました。完膚なきまでの敗北も味わうことにもなったプロジェクトでしたが、それも結果的に非常に良い経験となるものでした。その話もいずれ番外編で書き綴ろうと思います。

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